Dec 31, 2010
引越しが多かったので、今も引っ越しを楽しみにしている私がいる
引越しという文字を見ただけで、今も胸が来たゅんとなてしまう。子供の頃は、引っ越しが多い人生だった。小学校4校、中学校2校、高等学校も変わった。理事が当たり前だったので引越しのない人生は考えられないほど次はどこに移動のはずだという考えが今も消えない。そのせいか、どこに住んでいて、そこが自分の安住の地だと思う。一時滞在者という意識がある。ところが、ここにはまた20年以上住んでいる。それでも、その中のどこかに移動すると、毎日感じている自分がいる。地震対策はお済ですか?地震対策に不安がある場合は、リフォームの耐震補強を考えてみてはいかがでしょうか。最近では技術が進んでいるため、建て替えではなく、リフォームでも耐震補強があるそうです。興味のある方は、まず耐震診断を受けて、ある程度のリフォームが必要か見て受ければいいですよ。他のリフォームと一緒にすれば効率的にすることができます。
4月15日昼。宮城県東松島市大曲浜の岸壁は波が静かに寄せては返す。「波の音を聞くと、すぐに海に出たくなります」。ノリ養殖業者の4代目、相沢裕太さん(24)は大好きな父と海に出ていた日々を思った。
【がんばれ漁業】東日本大震災:南三陸町で「福興市」
大曲浜を拠点にする県漁協矢本支所のノリは、毎年開催される県内の品評会で優勝や準優勝を飾り、6年連続で皇室に献上している。後継ぎの多くが一度は他産地で修業を積むなど、研究熱心な産地で、「献上ノリ」は皆の誇りだった。
だが、東日本大震災で生産者19軒のうち6軒で犠牲者が出て、150もあった漁船もほぼ壊滅。裕太さんの一家も、生活の糧を失い、市内の避難所に母、姉妹との4人で身を寄せる。浜に近い自宅はコンクリートの基礎しか残っていない。家が密集していた住宅街は見渡す限りがれきになっていた。
持って逃げたのはポケットに入っていた携帯電話だけ。震災から2カ月近くたっても、財布すら持てない生活が続く。
「避難所は暇で、暇で。でもダラダラしてたら、おっとうに叱られる」。茶色に染めた髪をかき上げる裕太さん。幼いころから、ずっと父の背中を追いかけてきた。
◇「献上ノリ」再生誓う4代目
水産高校を卒業後、迷わず家業を継いだ。日焼けした太い腕でてきぱきと仕事をこなす父幸一さん(54)はあこがれだった。「ダラダラすんなら、何かしろ」。ノリづくりには厳しかったが、幼いころは、日曜のたびに船に乗せてくれた。小さなけがでも、「医者に行け」と、心配する子煩悩な父だった。
3月11日。午前の仕事を終え、居間のコタツで寝そべっていた。自宅わきの加工場では幸一さんと母喜代子さん(56)が作業をしていた。いつもと変わらぬ昼下がりだった。
午後2時46分。激しい揺れに裸足で庭に飛び出す。2階には妹朋美さん(17)もいた。「頼むぞ」。父に促され、車に母と妹を乗せて家を出る。だが、父のトラックは浜へ走った。裕太さんは2人を避難させた後、急いで岸壁に向かった。やはり父がいた。「船のことはやっておいた」。漁師仲間と海を見つめていると、じわり、じわりと海面が上昇してきた。津波だった。
車で浜から逃げたが、車道が水につかり身動きが取れなくなった。車を乗り捨て、住宅街を一緒に全力で走った。数百メートル走ったところで、父は息を切らし、ゆっくり歩き始めた。振り向いた裕太さんにうつむく父は「先に行け」とだけ告げ、手を振った。波がゴォーと音を立てながら迫る。走り続けるしかなかった。再び振り向いたとき、父の姿は消えていた。波は容赦なく人々を襲う。鉄柵にしがみついていた裕太さんも波に流された。
油混じりの海水を飲み、力尽きようとしたとき、ふと「おれが死んだら家は女だけが残される」と思う。隣からおぼれた女児が自分を見つめていた。「おっとうの分まで生きないと」。力を振り絞り女児を左腕で抱え、水面に顔を出す。近くを漂流していた車のボンネットによじ登った。偶然は続く。目の前に流れてきた小舟に女児と乗り移り命を取り留めた。
父は自宅から2キロ離れた住宅街で見つかった。遺体安置所で家族が泣き崩れる中、涙をこらえた。「男は人前で泣くな」。父の言葉を思い出した。
避難所での長い夜。何度も津波の夢にうなされ目を覚ます。なぜか父は夢に出てこない。そんなときは頭まで毛布をかぶり涙を流す。「先に行け」と言った父。そのとき、何を思ったのか。
裕太さんが胸に刻むノリへの情熱や海の男の意地。それはみんな、父から受け継いだものだった。「何年かかってもいい。おっとうがやり切れなかった分までやりたい」
被災から1週間後、携帯電話が鳴った。「すぐにノリはできねえけど、まずはワカメをやってみねえか」。若手の漁師仲間からの思いがけない相談だった。【竹内良和】
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だが、東日本大震災で生産者19軒のうち6軒で犠牲者が出て、150もあった漁船もほぼ壊滅。裕太さんの一家も、生活の糧を失い、市内の避難所に母、姉妹との4人で身を寄せる。浜に近い自宅はコンクリートの基礎しか残っていない。家が密集していた住宅街は見渡す限りがれきになっていた。
持って逃げたのはポケットに入っていた携帯電話だけ。震災から2カ月近くたっても、財布すら持てない生活が続く。
「避難所は暇で、暇で。でもダラダラしてたら、おっとうに叱られる」。茶色に染めた髪をかき上げる裕太さん。幼いころから、ずっと父の背中を追いかけてきた。
◇「献上ノリ」再生誓う4代目
水産高校を卒業後、迷わず家業を継いだ。日焼けした太い腕でてきぱきと仕事をこなす父幸一さん(54)はあこがれだった。「ダラダラすんなら、何かしろ」。ノリづくりには厳しかったが、幼いころは、日曜のたびに船に乗せてくれた。小さなけがでも、「医者に行け」と、心配する子煩悩な父だった。
3月11日。午前の仕事を終え、居間のコタツで寝そべっていた。自宅わきの加工場では幸一さんと母喜代子さん(56)が作業をしていた。いつもと変わらぬ昼下がりだった。
午後2時46分。激しい揺れに裸足で庭に飛び出す。2階には妹朋美さん(17)もいた。「頼むぞ」。父に促され、車に母と妹を乗せて家を出る。だが、父のトラックは浜へ走った。裕太さんは2人を避難させた後、急いで岸壁に向かった。やはり父がいた。「船のことはやっておいた」。漁師仲間と海を見つめていると、じわり、じわりと海面が上昇してきた。津波だった。
車で浜から逃げたが、車道が水につかり身動きが取れなくなった。車を乗り捨て、住宅街を一緒に全力で走った。数百メートル走ったところで、父は息を切らし、ゆっくり歩き始めた。振り向いた裕太さんにうつむく父は「先に行け」とだけ告げ、手を振った。波がゴォーと音を立てながら迫る。走り続けるしかなかった。再び振り向いたとき、父の姿は消えていた。波は容赦なく人々を襲う。鉄柵にしがみついていた裕太さんも波に流された。
油混じりの海水を飲み、力尽きようとしたとき、ふと「おれが死んだら家は女だけが残される」と思う。隣からおぼれた女児が自分を見つめていた。「おっとうの分まで生きないと」。力を振り絞り女児を左腕で抱え、水面に顔を出す。近くを漂流していた車のボンネットによじ登った。偶然は続く。目の前に流れてきた小舟に女児と乗り移り命を取り留めた。
父は自宅から2キロ離れた住宅街で見つかった。遺体安置所で家族が泣き崩れる中、涙をこらえた。「男は人前で泣くな」。父の言葉を思い出した。
避難所での長い夜。何度も津波の夢にうなされ目を覚ます。なぜか父は夢に出てこない。そんなときは頭まで毛布をかぶり涙を流す。「先に行け」と言った父。そのとき、何を思ったのか。
裕太さんが胸に刻むノリへの情熱や海の男の意地。それはみんな、父から受け継いだものだった。「何年かかってもいい。おっとうがやり切れなかった分までやりたい」
被災から1週間後、携帯電話が鳴った。「すぐにノリはできねえけど、まずはワカメをやってみねえか」。若手の漁師仲間からの思いがけない相談だった。【竹内良和】
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